昨年読んだ『西南戦争』は、その前段階として明治六年政変から始まるのだが、記述がちょっとあっさりしすぎていて(西南戦争が本題なんだから当たり前なのだが)、なんだかピンと来なかったところ、ちょうどいい具合にこの事件をテーマにした本があったので読んでみた。
まず激しく違和感を感じたのは、作者の人物描写だ。自分は、作家や文学者が書いた歴史書を好まない(というより歴史書と思えない)のだが、その理由は、人物の好き嫌いをいちいち書くからだ。登場人物に対する作者の思い入れなんて、歴史書においては害悪でしかない。そういうのは評論の役割だ。
で、この本はそれが激しい。歴史家の書いた本だとは思えないくらいだ。江藤新平にはその名前の前にしばしば「頭脳明晰な」をつけて持ち上げ、逆に三条実美には「小心な」「凡庸な」をつけてこきおろしている。そう思うのはもちろん自由だけど、そういう先入観を植え付けられると、読み手はまともな判断ができなくなっちゃう。
また、文末に「〜ではなかろうか」「〜にちがいない」「〜と思われる」が頻繁に現れる。作者の書き癖なのかもしれないけど、これでは根拠のない推論がたらたら書き連ねてあるように読み取れる。
と、気になる点は多々あるのだが、内容は、それらを差し引いてもおもしろかった。一次資料をもとに話を進めているのがいいのだと思う。西郷征韓論者説に物申す、という論旨も明解で気持ちよく読めた。「通説」を無検証では受け入れないというのは、歴史学の方法としてまっとうだと思う。言いたいこともよくわかったし、おもしろい説だと思った。
ただ、自分はこの本の説には全面的には賛成できない。説得力に乏しいように思えるのだ。その最大の要因は、西郷自らが「俺は征韓論者じゃない」と述べている資料は存在しないのにそれを証明しようとしているからで、すっかり悪魔の証明状態になってしまっているためだと思う。
読み終えてから、『西南戦争』の冒頭部分をもう一度読み返してみたのだけど、おかげでこの政変から西南戦争に至る流れがよくわかった。そして西郷の真意は征韓論になく、平和的交渉を望んでいたという見解もある(後略)
と、1段落を割いて触れられているのが印象的だった(7頁)。『西南戦争』では、この本の説を引くことによって、名分を重んじる西郷の気質が西南戦争に至る伏線として位置付けられているのだった。
これは歴史の授業で「長州征伐」として習う内戦についての本だ。筆者に考えがあって、あえてその名称は採用していない。確かに、プロローグにあるように征討する側が敗退した戦争を「征伐」と称するのは名前倒れだ
と言われればそのとおりだ。なるほど。
サブタイトルが「幕府瓦解への岐路」となっている。そういえば、徳川幕府ってどうして滅びてしまったんだろう。財政難とか外圧とかが考えられるけど、幕府は別に破産したわけじゃないし、外国に占領されたりしたわけでもない。
で、筆者によると、この長州戦争がそのきっかけだったというのだ。
章立ては大きく4つに分かれていて、第一章「長州が政敵になるまで」、第二章「第一次征長」、第三章「江戸と山口」、第四章「第二次征長」となっている。
第二章・第四章はタイトルのとおり。第一章は1860年桜田門外の変のあたりから始まり、禁門の変を経て長州征討令が出るまで。第三章はサブタイトルが「二つの主戦派」ということで、二度の征長の間の幕府・長州双方の動きを記している。
この第三章が非常におもしろかった。長州が戦争を決意して富国強兵の方針を採る過程がよくわかる。幕府側のダメっぷりが対照的に描かれている。第四章にかけて、諸藩が幕府に愛想をつかしてどんどん離れていくのを見ると、政権が滅びるときはもろいものだと改めて思った。
おもしろい本だったが、参照資料に『防長回天史』がやたらと多いのが気になった。
また、ときおり小説のような薫りがする文体はちょっと気になって好きになれなかった。そういやプロローグで伏線を張っているのも文学的だ。あと、戦地の地図が局所的なものばかりなのが残念(しかも見にくい)。まあこれは単に自分が地図好きだからそう感じたのかもしれない。
サブタイトルが「敗者の明治維新」ということで、新政府(薩長)に敗れた会津などの東北諸藩に注目した本。
戊辰戦争というと、自分にはどうも薩摩・長州×会津・旧幕臣という印象が強い。全体としても、鳥羽伏見の戦い→江戸開城→会津戦争→函館戦争という流れでしか認識していなかった。薩長に敵対したのは会津・長岡と榎本武揚くらいのものだと思っていたのだ。
ところが、実は東北の藩は同盟を組んで薩長に対峙していたことを知った。仙台藩と米沢藩の駆け引きや、大藩の間で揺れ動く小藩の苦悩など、さまざまな思惑が複雑に絡み合って近現代の外交史のようだ。東北戦争前の和平工作のくだりは緊迫感もあって引き込まれた。歴史書じゃないみたいだ。
東北の話に比重が置かれているため、鳥羽・伏見の戦いや函館の戦いなどがあっさりとした記述なのはちょっと残念。まあ紙数の関係上しかたないのだろう。
それでも、榎本武揚らは蝦夷に共和国を作ろうとしていたと言われることがあるが本当にそう考えていたのか、という考察など興味深い話があり、これまた掘り下げたらおもしろそう。
西郷隆盛は不平士族に担ぎ出されて西南戦争を起こしたと学校で習った(ような記憶がある)が、本当にそうだったんだろうか。西南戦争に関してはそんな素朴な疑問を持っていた。
西郷は明治6年の政変に敗れて鹿児島に帰ったあとも、政府からその動向をマークされていたということもあって、その当時の発言が少ないようだ。さらに、開戦以降は発言が極端に少なくなる。彼自身が薩軍の求心力であり存在理由でもあったため、発言はおろか、万一を恐れて行動も制限されていたらしいのだ。
そんな数少ない西郷の発言からは、大義名分にこだわり、またその名分がないことから、はやる士族らを抑えようとしていたことがわかった。つまり、戦争を始めたのは西郷自身ではなく一部の不平士族だった。そして西郷は、蹶起してしまった彼らを見捨てることができずに仕方なく首班の座に収まった、という印象を受けた。
この本は、通常歴史本ではさらっと流されてしまう各戦闘の展開も書いてあって、戦記としてもおもしろいと思う。ただそのせいで時系列が前後してしまうことがあって、戦争全体の流れをつかむにはちょっと苦労した。そのためにも付録かなんかで年表があったりすると理解の助けになったとは思うのだが。
「あとがき」によると、西南戦争に関する新書本はこの本が50年ぶりの発行なんだとか。
(小川原正道著・2007年)(2008年11月6日読了)日本史は小学校・中学校でそれぞれ習ったが、いずれも、1年間の授業では時間が足りずに天保の改革あたりで年度末になってしまい、天保以後は年表を追う程度の授業だった。高校の社会科では世界史と地理を選択した。そんなわけで、幕末から明治の歴史がとんとわからないまま、自分にはちょっと苦手な時代として記憶されてきた。
特に幕末は、朝廷と会津と薩摩と長州がくっついたり離れたりして、わけがわからないのだ。朝敵だったはずの長州がいつの間にか官軍になっちゃったりして、もうなにがなんだか。毎週の放送のたびにカップルの組合せが変わってしまう全盛期のトレンディドラマのような展開に、まったくついていけないのだ。
ところが、今年の大河ドラマ『篤姫』を観ていて、なんとなくわかったような気がしてきた(『新選組!』ではサッパリだったのに)。なんだか個性的な人物が多くて、三国志をもうちょっと身近にしたような感じがした。ちょっとわかりかけてくると逆にとても面白く思えて、幕末関連の本を読みたくなってきた。で、とりあえず、有名人の坂本龍馬に関する本を買って読んでみたのだ。
坂本龍馬は、幕府のお尋ね者となったために潜伏ばかりしていたせいもあって、行動が明らかになっていないところが多く、推測だらけなのが少し残念なところではある。維新以前に死んでしまったため、他の人物と違い、後に「あの頃を語る」みたいなこともなかったし。
それでも、ドラマなんかのイメージどおり大胆で開明的な考えを持っていたようだということは読み取れた。もっとも印象的だったのは、政治家というよりはむしろ実業家的な人物だったという「むすび」の説だった。
この本では龍馬本人に焦点があたっているため(当たり前か)、幕末全体の歴史の流れの中での龍馬の位置みたいなものがいまいちわかりにくかったが、これは自分が幕末素人だからなのだろう。
自分にとって最大の謎は、「どうして一介の浪人が大藩のつきあいに口を出せたのか」ということだったが、これは薩摩にしても長州にしても、藩主ではなくて西郷なり木戸なりが実際の藩政を動かしていて、龍馬はそういう人物たちとの交流があったからということのようだ。そうすると今度はその西郷なり木戸なりがどうやって藩政を掌握していったのかということが疑問になるわけで。
だからこの本も、もうちょっと全体史のようなものを勉強してから読めばより面白かったかもと思った。幕末を知りたかったら、坂本龍馬よりも、西郷隆盛や大久保利通や木戸孝允から入ったほうがつかみやすかったのかもしれない。龍馬はその時代に重要な役割を果たしたがあくまでも脇役であり、主役はやはり西郷・大久保・木戸の三傑なのだ。
ところで今回幕末に関する新書本を探していて、中公新書はその辺のタイトルがやたらと充実していることに初めて気付いた。ただ、その中公新書にも、幕末を全体的に眺め渡せるようなものはないようだ。
(池田敬正著・1965年)(2008年10月22日読了)ワインは好きでよく飲むが、シャンパンは高くてなかなか手が出せない。しかたないので、イタリアのスプマンテなどを楽しんでいた。スプマンテもシャンパン製法で作られたものは結構美味いのだが、でもやっぱり、シャンパンにはかなわないと思う。だからもうちょっと、シャンパンのことをちゃんと知っておきたいと思っていたところだった。
いったいシャンパンのどこが凄いのだろう。
まずシャンパンをめぐる最近の事情、次にメゾンの歴史や格付けの話などがきて、残りの1/3が本題の「死ぬまでに飲みたい30本」の紹介となっている。
レコルタン・マニピュラン(RM)という言葉も知ってはいたが、それがどうしてウリになるのかがいまいちピンときていなかったが、この本を読んでやっとわかったような気がした。近くのデパートの売り場にはこのRMがずらずら並んでいるので今度よく眺めてみよう。
ワインは飲み物なのだから、美味しく飲めればそれでいいという考えもあろうが、それが生み出された背景を知るとより一層深く味わえるようになると自分は思う。RMのこともそうだが、メゾンの歴史なんかも知ってみるとおもしろい。そのテの話は普段敬遠しがちなのだけど、興味深く読めた。
30本の紹介も、それぞれのメゾンの特徴が出ていて参考になった。
数えてみたら、30本のうち、意外にも10本くらいは飲んだことがあるものだった。でもこんなに深く味わいながら飲んだことなかったから、飲み直さないといけない。
それにしても、近所でリーデルのシャンパングラス(フルート型)の安売りを見つけて買ったばかりなのに、『脱フルートグラスのススメ』なのがちょっぴりショックだった・・・
学生の頃にニーチェの「善悪の彼岸」を読んだことがあって、普段なんとなく考えていたことがそのものずばり書いてあったのに衝撃を受けた。共感できそうな気がして、次は有名な「ツァラトゥストラはこう語った」を読んでみようと思いたったのだが、本を手にとってぱらぱらとめくってみると散文調でなんだかとてもじゃないけど読めたもんじゃない。
で、そのまま諦めて20年近くの歳月がたったのだが、先日ふと本屋で見かけたこの本が、なんだかちょうどよい解説書のように思えたので買ってみた。
ニーチェとはどういう立場の人なのか、というような背景はほとんど知らなかったのだけど、この本ではそのあたりの解説から入るのも勉強になった。
ちゃんとストーリーを追っての解説なので、原作を読んでもいないのに読んだような気になれた。ごく大雑把に言って、紆余曲折があった挙句に、最後は永劫回帰に落ち着く感じだった。最後だけ読みゃいいじゃん、という気がしないでもない。
ニーチェが難解なのは思想というよりもその独特の表現方法にあるようだ。裏の裏を読むとか、パロディ化して読むとか、そんなこともしなければならないらしい。なるほど、読み手の数だけ解釈があるというのはそういうことなのかと納得した。だが自分にはそんな読み方できない。あのとき、原作にチャレンジしていたらきっと挫折していたに違いないと思った。
(村井則夫著・2008年)(2008年9月4日読了)就職して数年たった頃、ふと思いついて大学受験のときの代数の参考書を解いてみたことがある。脳みその普段使っていないところを使うためなのか、とても疲れたことを覚えている。それは決して嫌な感じではなく、心地よい疲労感というべきものだった。
で、そんな経験をもう一度できるのかなあという軽い気持ちでこの本を買ってみた。
本屋でちょっとぱらぱらとめくってみた感じだと数字にまつわるエピソードみたいなのが載っていそうで、『博士の愛した数式』にでてくるようなウンチク話中心なのかと思ったのだが、そうではなく、小学生に対する算数の教え方の本で、まさに算数再入門だった。
学生時代、家庭教師のアルバイトをしていた友人たちが口を揃えて、小学生に対して算数の説明をするのにxが使えないのがとても不便だ、と言っていたものだが、この本を読むとどのように教えたらよいのかがよくわかる。小学校の教師を目指す学生や、小学生の子どもに質問攻めにあっている親にはよき参考書となるだろう。
ただ、自分は小学生の頃そろばんを習っていたので繰り上がりとか繰り下がりでつっかえたことがないし、3桁までなら暗算ができたので、算数で困ったことがない。だからこの本で「再入門」する内容も、どうも七面倒でしかたなかった。
だから、本文の合間に入るコラムで紹介される小学生の意外な発想に驚いたりする程度の感想となってしまった。ただ、小学生に対する指導のしかたとして、問題の解き方などのテクニック面はもちろん、子どもの一見突拍子もない話を頭ごなしに否定するのではなく、それをきちんと理解して褒めたりすることで子どもの能力とかやる気を引き出していくという作者の姿勢には感動を覚えたのだった。
タバコに関する本を読むのはこれが3冊めだ。
最初の1冊は岩波新書の『タバコはなぜやめられないか』で、読んだのは1994年のこと。単純に、タイトルと同じ疑問を持ったから読んだ。この本で初めて、喫煙が止められないのはニコチンという「薬物への依存」だからだ、ということを知った。なんだ、つまり、麻薬と一緒なのか。
次も同じく岩波新書で『現代たばこ戦争』。これは1999年に読んでいる。この本で、アメリカにおけるタバコ訴訟では「喫煙者がタバコを吸って病気になるのは自業自得」という考えが、変わってきていることを知った。毒だという情報を隠したまま売り続けたタバコ会社に責任があり、喫煙者はその被害者だというのだ。でもちょっとこれには納得いかなかった。じゃあその煙を浴びせかけられてる我々非喫煙者はなんなんだ、と。冗談じゃない、被害者はこっち(非喫煙者)に決まってるだろ。
しかし今回この『まだ、タバコですか?』を読んで、ようやく喫煙者に同情できるようになった。彼らが薬物依存の被害者だということが理解できたのだ。以前に読んだ2冊の本が有機的につながった感じだ。
麻薬依存症者のほとんどがタバコを吸っています。そこで、依存症で治療を受けている患者に、麻薬とタバコとどちらが断ちにくい? と尋ねてみると彼らはこう答えます。”タバコのほうだ。タバコのほうがやめられない”(31頁)
タバコが嗜好品だというのなら、TPO(時・所・場合)をわきまえて、自分の意志で喫煙行為を制御できなければおかしい。呼吸器の弱い高齢者や乳幼児、妊婦の前でも平気で吸えてしまうのは、薬物が行動を起こさせているからにほかならない。こう考えると「喫煙マナー」をいかに声高に訴えても、ニコチンに支配された脳にはほとんど意味がないことがわかる。(36-37頁)レストランなんかで喫煙者を観察すると、次の皿を待っている間に吸っている人ばかりで、自身が食べ物を口に運んでいるときにタバコを吸う人はひとりもいない。食べ物とタバコを一口ずつ交互に口にしている人はいまだかつて見たことがないのだ。どんなヘビースモーカーでもそうだ。おそらくそんなことすると自分の食事がまずくなるからだろうと思うのだが、周りが食事中なことに彼らは気づいていない。自分が避けていることを周囲に強要する無神経さに腹がたってしようがないのだが、それもこれでわかった。薬物依存とは恐ろしいものだとあらためて思った。
タバコの毒性についてはもう耳タコなので、ここでは他の気になった話題を挙げてみる。
禁煙外来の医師の証言が興味深かった。患者にはタバコのマイナス面を言わないのだという。いくら有害性や家族の健康について話をしても、ほとんど認知できないから
だというのだ。まずは、タバコをやめるとこんなに良いことがあるんだ、ということから話すらしい。
タバコ農家の「タバコ酔い」というのも初めて知った。タバコは植物として生えている状態でも毒素を発するため、タバコ農家の人たちは収穫のときに気持ち悪くなったりすることがあるらしいのだ。
そのうちこういう人たちが国やらタバコ会社やらを訴えたりするのだろうか。このまま野放しだと、最近のアスベスト問題とか薬害エイズ事件みたいになってしまうのではないだろうか。
ちょっと首をかしげたのは、アルツハイマー病との関連性について。
この本を買った理由のひとつが帯に書いてある「アルツハイマー病予防」を覆す
という一文だった。上に書いた本『タバコはなぜやめられないか』で、アルツハイマー病患者に喫煙者が少ないために喫煙がある程度の効果があるのではないかという説が載っていて、タバコには「百害あって一利だけ有り」、というふうに自分は見ていたので、どう覆すんだろうと思って期待して読んでいたのだ。
でも、いきなりこんな文が出てきてびっくり。
アルツハイマー病をすでに発症した患者を対象に調査した場合、一日の喫煙本数や喫煙年数などを正確に聞き出すのはきわめて難しい。本人が答えられなければ、近親者がうろおぼえで申告した概数が統計数値のベースになってしまうし、発症によってタバコを吸わなくなった患者を「非喫煙者」と分類してしまう恐れもある。これじゃタバコの害を説かれても耳を貸そうとしない喫煙者とかわらないと思う。
そもそも、喫煙者であればアルツハイマー病になるまでに、他の疾患で亡くなっている可能性が高い。アルツハイマー病患者の集団に喫煙者が少ないのは”見せかけ”かもしれず、もともと「タバコの予防効果」を公言するには、早計のきらいがあったのだ。(85頁)
スウェーデンで行われた、子どもを対象にした家庭での曝露レベルの調査では、親が窓を閉めて屋外で喫煙している家庭の子どもは、親が非喫煙者である子どもの2倍の曝露が観察されたという。換気扇の下で吸っている家では3倍、窓の近くで吸う家は2.4倍と、もっと高い。
これは、一服終えて部屋の中に入っても、呼吸して肺から毒が吐き戻されるからなのだろう。ホタル族が家族のためにと、近隣の家に煙が流れる迷惑をも顧みずに続けている哀しい努力は、実はまったくの無駄だったのだ。
タバコ会社が未成年者をターゲットに顧客開拓をしているのは有名な話だが、これは奏功しているようだ。なんと喫煙者の9割が未成年のときからタバコを吸いはじめているのだとか。そういえば、私は、20歳になってタバコを止めた人を何人か知っているが、20歳になってからタバコを吸い始めた人をひとりも知らない。
そして喫煙する高校生の8割は自販機からタバコを購入しているという。タバコが自販機で売られている国は、世界広しといえども日本とドイツだけだ。タバコ規制枠組条約でも撤廃の方向で話が進んでいたのに、日本の反撃で未成年者対策を施すという条件付きで撤廃を免れたという経緯がある。まあでも売る方は未成年者に売りたいんだから、タスポとかいうへんな装置はただのアリバイづくりにすぎない。
タバコは口に含むものだが、食品衛生法にも薬事法にも規制されない。よって毒物が添加されていても何のお咎めもなし。ただ葉っぱを乾燥させて紙に巻いているのではなくて、ニコチンが吸収されやすいように様々な薬品が添加されている。
海岸に漂着するゴミの中で最も多いのがタバコ関連だ。海岸清掃などを行っているNGOの人の言うには、漂着ゴミのなかでタバコは発生源が明確です。喫煙者が捨てなければ確実に数を減らせるんです。ところが、モラルはきわめて希薄で、いつも一番捨てられている。マナーの向上などまったく感じられませんね(237頁)
ということだそうである。
いかにもジャーナリストな、正義感を振りかざした感じのちょっと煽るような文章が自分には鼻についてしまうのだけど、ニコチン依存に関する記述は強烈な印象で、悪いのは喫煙者じゃなくて財務省とタバコ会社なのだと思えるようになった。冒頭の方の、タバコを口にくわえ、先端に火をつけて煙を吸引するという適正な使用法を厳に守った消費者に対して、これほどの殺傷力をあらわす商品など他にありはしない(8頁)
という文でハッと思った。けだし名言だ。
自分にもタバコを吸う友達が何人かいたが(いずれも疎遠になってしまった)、つられて喫煙者にならなくてほんとうによかったと、心底思えた1冊だった。
中公新書の『東京裁判』を読んだのは1年半も前のことで、それ以来の東京裁判ものだ。
中公新書版の発行は1971年だから、それ以後判明した新事実なども反映されているだろう。それに中公新書版には書かれていない、裁判後の戦犯釈放についても記述されているので、買ってみた。
本書の最初の一文が、「東京裁判は国際問題である」というもので、なんのことやらさっぱり意味が分からず、こりゃあ困ったことになったと思った。が、半分くらいまで読み進んでやっとそのことが理解できた。
裁判の裏では国と国との虚々実々の駆け引きがあった。それは勝者・連合国と敗者・日本との間というような単純なものではなくて、連合国間においても繰り広げられていたり、また裁判じたいが終わってから戦犯が釈放されるまで続いた。
たとえば東西冷戦が戦犯の釈放に影響していたとかいうのがそうだ。ソ連が日本に反米感情を植え付けるための方策として戦犯釈放を利用したという。また、対立は東西間だけではなくて、西側陣営でも米英間の対立もあったり、さらにそこにインドまで絡んできたりでヤヤコシイ。
自分は政治学の本は苦手なのだが、こういう駆け引きみたいなのはスリリングでおもしろいと思った。ただ、読んでみて、東京裁判全体の流れを概観するにはこの本は向かない気がした(たとえば法廷でのやりとりについてはほとんど触れられていない)。中公新書版などの本で流れをつかんでから、この本を読んだ方が理解は深まるだろうと思った。自分は偶然だがその順番になったので、とてもおもしろく読めたのだと思う。
ほかに感心したのは、戦犯には二面性があるという指摘だった。戦犯は、対外的には「国際法上の犯罪人」、対内的には「国内法上の非犯罪人」という「
ということだ(378頁)。
閣僚の靖国参拝が問題になると「日本国内の問題だから外国が口をはさむようなことではない」というような意見を言う人もいるし、そう聞くとなるほどと思う。でも実際に外国は過敏に反応するわけで、それも当然のことだと思う。自分にはどちらの言い分も納得できてしまうので混乱していたのだが、つまりはこういうことだったのだと目からウロコがぽろぽろ落ちたというわけだ。
最後に、いくら400頁超の大作とはいえ新書が1冊1,100円とはずいぶん高くなったもんだと、別の意味でも感動した。
(日暮吉延著・2008年)(2008年6月18日読了)