中公新書の『東京裁判』を読んだのは1年半も前のことで、それ以来の東京裁判ものだ。
中公新書版の発行は1971年だから、それ以後判明した新事実なども反映されているだろう。それに中公新書版には書かれていない、裁判後の戦犯釈放についても記述されているので、買ってみた。
本書の最初の一文が、「東京裁判は国際問題である」というもので、なんのことやらさっぱり意味が分からず、こりゃあ困ったことになったと思った。が、半分くらいまで読み進んでやっとそのことが理解できた。
裁判の裏では国と国との虚々実々の駆け引きがあった。それは勝者・連合国と敗者・日本との間というような単純なものではなくて、連合国間においても繰り広げられていたり、また裁判じたいが終わってから戦犯が釈放されるまで続いた。
たとえば東西冷戦が戦犯の釈放に影響していたとかいうのがそうだ。ソ連が日本に反米感情を植え付けるための方策として戦犯釈放を利用したという。また、対立は東西間だけではなくて、西側陣営でも米英間の対立もあったり、さらにそこにインドまで絡んできたりでヤヤコシイ。
自分は政治学の本は苦手なのだが、こういう駆け引きみたいなのはスリリングでおもしろいと思った。ただ、読んでみて、東京裁判全体の流れを概観するにはこの本は向かない気がした(たとえば法廷でのやりとりについてはほとんど触れられていない)。中公新書版などの本で流れをつかんでから、この本を読んだ方が理解は深まるだろうと思った。自分は偶然だがその順番になったので、とてもおもしろく読めたのだと思う。
ほかに感心したのは、戦犯には二面性があるという指摘だった。戦犯は、対外的には「国際法上の犯罪人」、対内的には「国内法上の非犯罪人」という「
ということだ(378頁)。
閣僚の靖国参拝が問題になると「日本国内の問題だから外国が口をはさむようなことではない」というような意見を言う人もいるし、そう聞くとなるほどと思う。でも実際に外国は過敏に反応するわけで、それも当然のことだと思う。自分にはどちらの言い分も納得できてしまうので混乱していたのだが、つまりはこういうことだったのだと目からウロコがぽろぽろ落ちたというわけだ。
最後に、いくら400頁超の大作とはいえ新書が1冊1,100円とはずいぶん高くなったもんだと、別の意味でも感動した。
(日暮吉延著・2008年)(2008年6月18日読了)タバコに関する本を読むのはこれが3冊めだ。
最初の1冊は岩波新書の『タバコはなぜやめられないか』で、読んだのは1994年のこと。単純に、タイトルと同じ疑問を持ったから読んだ。この本で初めて、喫煙が止められないのはニコチンという「薬物への依存」だからだ、ということを知った。なんだ、つまり、麻薬と一緒なのか。
次も同じく岩波新書で『現代たばこ戦争』。これは1999年に読んでいる。この本で、アメリカにおけるタバコ訴訟では「喫煙者がタバコを吸って病気になるのは自業自得」という考えが、変わってきていることを知った。毒だという情報を隠したまま売り続けたタバコ会社に責任があり、喫煙者はその被害者だというのだ。でもちょっとこれには納得いかなかった。じゃあその煙を浴びせかけられてる我々非喫煙者はなんなんだ、と。冗談じゃない、被害者はこっち(非喫煙者)に決まってるだろ。
しかし今回この『まだ、タバコですか?』を読んで、ようやく喫煙者に同情できるようになった。彼らが薬物依存の被害者だということが理解できたのだ。以前に読んだ2冊の本が有機的につながった感じだ。
麻薬依存症者のほとんどがタバコを吸っています。そこで、依存症で治療を受けている患者に、麻薬とタバコとどちらが断ちにくい? と尋ねてみると彼らはこう答えます。”タバコのほうだ。タバコのほうがやめられない”(31頁)
タバコが嗜好品だというのなら、TPO(時・所・場合)をわきまえて、自分の意志で喫煙行為を制御できなければおかしい。呼吸器の弱い高齢者や乳幼児、妊婦の前でも平気で吸えてしまうのは、薬物が行動を起こさせているからにほかならない。こう考えると「喫煙マナー」をいかに声高に訴えても、ニコチンに支配された脳にはほとんど意味がないことがわかる。(36-37頁)レストランなんかで喫煙者を観察すると、次の皿を待っている間に吸っている人ばかりで、自身が食べ物を口に運んでいるときにタバコを吸う人はひとりもいない。食べ物とタバコを一口ずつ交互に口にしている人はいまだかつて見たことがないのだ。どんなヘビースモーカーでもそうだ。おそらくそんなことすると自分の食事がまずくなるからだろうと思うのだが、周りが食事中なことに彼らは気づいていない。自分が避けていることを周囲に強要する無神経さに腹がたってしようがないのだが、それもこれでわかった。薬物依存とは恐ろしいものだとあらためて思った。
タバコの毒性についてはもう耳タコなので、ここでは他の気になった話題を挙げてみる。
禁煙外来の医師の証言が興味深かった。患者にはタバコのマイナス面を言わないのだという。いくら有害性や家族の健康について話をしても、ほとんど認知できないから
だというのだ。まずは、タバコをやめるとこんなに良いことがあるんだ、ということから話すらしい。
タバコ農家の「タバコ酔い」というのも初めて知った。タバコは植物として生えている状態でも毒素を発するため、タバコ農家の人たちは収穫のときに気持ち悪くなったりすることがあるらしいのだ。
そのうちこういう人たちが国やらタバコ会社やらを訴えたりするのだろうか。このまま野放しだと、最近のアスベスト問題とか薬害エイズ事件みたいになってしまうのではないだろうか。
ちょっと首をかしげたのは、アルツハイマー病との関連性について。
この本を買った理由のひとつが帯に書いてある「アルツハイマー病予防」を覆す
という一文だった。上に書いた本『タバコはなぜやめられないか』で、アルツハイマー病患者に喫煙者が少ないために喫煙がある程度の効果があるのではないかという説が載っていて、タバコには「百害あって一利だけ有り」、というふうに自分は見ていたので、どう覆すんだろうと思って期待して読んでいたのだ。
でも、いきなりこんな文が出てきてびっくり。
アルツハイマー病をすでに発症した患者を対象に調査した場合、一日の喫煙本数や喫煙年数などを正確に聞き出すのはきわめて難しい。本人が答えられなければ、近親者がうろおぼえで申告した概数が統計数値のベースになってしまうし、発症によってタバコを吸わなくなった患者を「非喫煙者」と分類してしまう恐れもある。これじゃタバコの害を説かれても耳を貸そうとしない喫煙者とかわらないと思う。
そもそも、喫煙者であればアルツハイマー病になるまでに、他の疾患で亡くなっている可能性が高い。アルツハイマー病患者の集団に喫煙者が少ないのは”見せかけ”かもしれず、もともと「タバコの予防効果」を公言するには、早計のきらいがあったのだ。(85頁)
スウェーデンで行われた、子どもを対象にした家庭での曝露レベルの調査では、親が窓を閉めて屋外で喫煙している家庭の子どもは、親が非喫煙者である子どもの2倍の曝露が観察されたという。換気扇の下で吸っている家では3倍、窓の近くで吸う家は2.4倍と、もっと高い。
これは、一服終えて部屋の中に入っても、呼吸して肺から毒が吐き戻されるからなのだろう。ホタル族が家族のためにと、近隣の家に煙が流れる迷惑をも顧みずに続けている哀しい努力は、実はまったくの無駄だったのだ。
タバコ会社が未成年者をターゲットに顧客開拓をしているのは有名な話だが、これは奏功しているようだ。なんと喫煙者の9割が未成年のときからタバコを吸いはじめているのだとか。そういえば、私は、20歳になってタバコを止めた人を何人か知っているが、20歳になってからタバコを吸い始めた人をひとりも知らない。
そして喫煙する高校生の8割は自販機からタバコを購入しているという。タバコが自販機で売られている国は、世界広しといえども日本とドイツだけだ。タバコ規制枠組条約でも撤廃の方向で話が進んでいたのに、日本の反撃で未成年者対策を施すという条件付きで撤廃を免れたという経緯がある。まあでも売る方は未成年者に売りたいんだから、タスポとかいうへんな装置はただのアリバイづくりにすぎない。
タバコは口に含むものだが、食品衛生法にも薬事法にも規制されない。よって毒物が添加されていても何のお咎めもなし。ただ葉っぱを乾燥させて紙に巻いているのではなくて、ニコチンが吸収されやすいように様々な薬品が添加されている。
海岸に漂着するゴミの中で最も多いのがタバコ関連だ。海岸清掃などを行っているNGOの人の言うには、漂着ゴミのなかでタバコは発生源が明確です。喫煙者が捨てなければ確実に数を減らせるんです。ところが、モラルはきわめて希薄で、いつも一番捨てられている。マナーの向上などまったく感じられませんね(237頁)
ということだそうである。
いかにもジャーナリストな、正義感を振りかざした感じのちょっと煽るような文章が自分には鼻についてしまうのだけど、ニコチン依存に関する記述は強烈な印象で、悪いのは喫煙者じゃなくて財務省とタバコ会社なのだと思えるようになった。冒頭の方の、タバコを口にくわえ、先端に火をつけて煙を吸引するという適正な使用法を厳に守った消費者に対して、これほどの殺傷力をあらわす商品など他にありはしない(8頁)
という文でハッと思った。けだし名言だ。
自分にもタバコを吸う友達が何人かいたが(いずれも疎遠になってしまった)、つられて喫煙者にならなくてほんとうによかったと、心底思えた1冊だった。
就職して数年たった頃、ふと思いついて大学受験のときの代数の参考書を解いてみたことがある。脳みその普段使っていないところを使うためなのか、とても疲れたことを覚えている。それは決して嫌な感じではなく、心地よい疲労感というべきものだった。
で、そんな経験をもう一度できるのかなあという軽い気持ちでこの本を買ってみた。
本屋でちょっとぱらぱらとめくってみた感じだと数字にまつわるエピソードみたいなのが載っていそうで、『博士の愛した数式』にでてくるようなウンチク話中心なのかと思ったのだが、そうではなく、小学生に対する算数の教え方の本で、まさに算数再入門だった。
学生時代、家庭教師のアルバイトをしていた友人たちが口を揃えて、小学生に対して算数の説明をするのにxが使えないのがとても不便だ、と言っていたものだが、この本を読むとどのように教えたらよいのかがよくわかる。小学校の教師を目指す学生や、小学生の子どもに質問攻めにあっている親にはよき参考書となるだろう。
ただ、自分は小学生の頃そろばんを習っていたので繰り上がりとか繰り下がりでつっかえたことがないし、3桁までなら暗算ができたので、算数で困ったことがない。だからこの本で「再入門」する内容も、どうも七面倒でしかたなかった。
だから、本文の合間に入るコラムで紹介される小学生の意外な発想に驚いたりする程度の感想となってしまった。ただ、小学生に対する指導のしかたとして、問題の解き方などのテクニック面はもちろん、子どもの一見突拍子もない話を頭ごなしに否定するのではなく、それをきちんと理解して褒めたりすることで子どもの能力とかやる気を引き出していくという作者の姿勢には感動を覚えたのだった。